いま,私の教室で
 
    『教師としてのスパン』 〜出会いと別れ〜
 
 第二次世界大戦が終了して,10年ほどたった昭和31年12月14日(金)私は産声をあげた。小さい頃,戦争の怖さ非道さについてよく話を聞かされた。そのときはずいぶん前の話を聞いているのだと考えていた。今は違う,10年なんてあっという間に過ぎ去ることがわかってきた。私が小さい頃に聞いた話は両親や祖父母達にとってはほんの少し前に起きたばかりの筆舌に尽くしがたい出来事だったのである。
 父の弟は戦争で亡くなった。40年以上前に聞いた過去の出来事の重さを今になって感じている。人の話は後になって理解できることがある。教育はあせらないのが良い。ただ,どこに向かっているのかははっきりさせておきたい。自分の大切なものを失わないように,人の大切なものを奪わないように。生徒達が向かうべき方向を示すような私が好きな言葉を,生徒達にわかりやすく語り続けたいものである。
 私は自分の家で生まれた。私を取り上げてくれたのは実家のとなりの佐藤まつのさんである。昨年96歳で天寿を全うされたと聞いた。とても元気な方で私をかわいがってくれた。小さい頃から大好きだった。帰省したらお参りしたいと思っている。
 祖父は私が5歳のときに亡くなった,よく知った身内と2度と会えなくなるという初めての経験だった。私は5人兄姉の末っ子である。2番目の姉は私が生まれる5年前に生まれてまもなく亡くなっているので記憶にはない。同居していた叔父は私が中学生のとき,祖母は私が高校生のときに亡くなった。それ以来,身内との別れは20数年なかった。
 3番目の姉が44歳で亡くなったときの悲しみは言葉では言い表せない。ALT(Assistant Language Teacher)と『日本の学校におけるいじめ問題について』の英語レポートを作成していた。ユーフォリア千里浜,夜8時頃だったろうか,空腹だったALTのD'Arcyは私の前で彼のお気に入りのカツカレーを食べていた。私達はいじめの定義やその解決策等について頭を悩ませていた。私の携帯電話が鳴った。兄からである。いつもと様子の違う兄は電話に出たのが私であることを確認すると,長女の直栄にかわると言った。姉は私に3女の広己が亡くなったことを知らせた。父は3番目に生まれる子供がたとえ男でも女でも,広い己と男らしい名前をつけることを決めていた。姉が中学校3年のときに『国土開発』をテーマに作文を書いた。それが入賞し賞品をいただいた。それが男性用の黒い万年筆だったとき,少し笑いながらもプンプンおこっていた姉の姿を思い出す。・・・D'Arcyは私の変化に気づき声をかけてきた。私がわけを伝えると,いつもおどけているように見える彼の様子が一変し,私への気遣いを感じることができた。外国人に涙を見せたのはこのときが初めてである。
 私は22歳で教員になった。山梨県の勝沼町立勝沼小学校が初任校である。5年生を担任した。もう少しで50人というクラスだった。読み書きとコミュニケーションが大切だと考えた私は,生徒全員に丈夫な日記帳を持たせ,毎日提出させた。帰りまでに全部を見るのは楽しみであり,苦しみであった。ただ,天秤にかけると楽しみの方が重かった。私の天秤理論(・・・・)はここで生まれた。
 5年生のクラス目標をみんなで考えた,そのとき私は母の姿と母の好きな言葉を思い出していた。不言実行である。ただ,5年生に黙って実行しよう,がんばろうと言っても何をがんばればいいのかわからないだろうと思った。黙って実行することは,親が指示したことなのか,先生が言っていることなのか,本に書いてあることかなどといろいろ考えてみた。そうして,25年前の私が考えた言葉は『今すべきことに全力をつくそう』であった。子供達も賛同してくれた。さて,目標を書いて教室前にかかげることにした。誰が書くのか話し合った。経緯は覚えていないが,担任の私が書くことになった。
 腹を括った私は筆でその目標を書く準備を始めた。家の床の間の部屋であったと思う。父は私に何をするのか尋ねた。私が文字を書くのが苦手であることを知っていた父は,それだけの理由ではないと思うが,私のかわりにその目標を書いてくれたのである。大きなカレンダーの裏の白い部分を使った。『今すべきことに全力をつくそう』と書いている父の姿に,何か暖かいものとそれ以上の何かを感じた。月並みな言葉で言うと,とてもうれしかった。私の目から見て,小さい頃から長男である兄へのかかわりが多かった父が,初めて私にかかわってくれたように感じた。私にとっては大きな大きな出来事であった。
 当時22歳の私を支えてくれたのは,同僚,子供達は言うまでもなく,地域,保護者の方々である。何故あのように多くの方々が22歳の私を受け入れ,支えてくれたのか。私ががんばっているからなのかとうぬぼれていたこともある。今振り返ると,私が出会った方々の私への期待が私を育ててくれたように思う。あてにするのではなく,信頼し期待することが人を育てるのだと思えてきた。教育用語にピグマリオン効果という言葉がある。何事も現状を否定的に決めつけるのではなく,常に自分の理想とする姿に確信を持って進み続ければ,やがて理想は現実のものとなるというものである。個性豊かな子供達と出会い,私は無意識であったと思うが,生徒を信頼し多くの期待をした。そして子供達に大いにかかわった。失敗した生徒達,自分のしたいことがうまくできない生徒達とどう接すればいいのか悩み,かかわることが楽しかった。私が子供達に期待していたように周りの人々が私にも期待していたのである。期待の相乗効果とでも言うのであろうか,本当に充実した日々を過ごさせていただいた。
 私は24歳で石川にやってきた。勝沼で5年生,6年生と担任した子供達が中学生になるのと同時に,私は,石川県の教員となった。初任校は鶴来町の朝日小学校である。こちらのことがまだ良くわからない私に,子供達はお構いなく素顔の自分をぶつけてきた。授業中「先生,言葉なまってるよ」と言われた。関東方面で生まれた私が使う標準語が,子供達にはなまっているように聞こえたのだろう。思わず笑ってしまったが,私が地域の言葉を使っていなかったのは事実であった。それが,その子にはなまっていると感じられたのだろう。言葉の定義のおもしろさを肌で感じた出来事だった。石川で初めて担任したのは小学校4年生である。言葉の違い,地域性の違い,今までかかわってきた生徒との様々な違いなど,悩みは多かった。しかし,毎日が新鮮であり,とても充実していた。あのころは業間体育という言葉がよく聞かれた。休み時間に意図的に運動を楽しんでもらおうという試みであった。子供たちの体力に応じたマラソンコースを作って走らせた。走る前後の心拍数や呼吸数を計ったりして子供達に運動と健康についての興味関心を高めさせようとしていたのだと思う。今考えてみても興味深い取り組みであった。春夏秋冬,石川での季節の移り変わりを初めて体験した。段々畑が冬になるとあっという間にスキー場に変わった。体育の授業で子供達とスキーを楽しんだ。そのころはやりはじめた一輪車にどちらが早く乗れるようになるか子供達と競争したのもこの頃である。
 4年間の小学校経験を経て,羽咋郡押水中学校に英語科教諭として着任した。当時は,県下に数名しか配属されていなかった MEF (Monbusho English Fellow) との授業のことをよく思い出す。訪問の頻度は現在と比べるとかなり少なく,継続的に授業に参加してもらうことは難しく,各クラスにとってOne Shot Visit(一度限りの訪問)になることもあった。それでも,生徒は授業を楽しみにし,その僅かな時間のなかで自分の意志や感情を伝えようと精一杯がんばっていたことが思い出される。そこには,英語人(英語を使って意志の疎通を図る人)と話すチャンスを活かそうという生徒がたくさんいた。授業中は活躍しなかった生徒も学校生活の様々な場面でMEFとかかわろうとしていた。しかしそのころは,全国的に校内暴力事件が頻発し,日本中の多くの中学校は揺れ動いていた。英語の授業でも,「何故,英語を勉強するのか」「どうしたら英語ができるようになるのか」という生徒の素朴な疑問に,真剣に耳を傾けなければ授業は成立しなかった。生徒の納得する「目的論」と「方法論」を持たない教師の授業は殺伐としたものになった。「受検(受験)のために」とか「将来のために」というような理屈は,「受検しない」「将来使わない」というように,いとも簡単に否定されるのである。また,「英単語や英文の覚え方は,教科書を声に出して,すらすらになるまで良く読んで,後は問題をたくさんこなそう。教科書を読む前には必ず,本当の発音(・・・・・)のテープを聞くんだよ。いいね。」というような通り一遍の語りかけなど,何の解決策にもならないのである。生徒は毎日のように素朴な疑問をぶつけてきた。それに,自分なりの言葉で対応しながら自分流の目的論と方法論を育ててきた。苦しいことや辛いことから逃れたいと悪戦苦闘する生徒達がつい見失いがちな,進むべき方向を示そうとした。そしてそこに何があるのかを伝えるべく自分の考える未来そして夢を語り続けた。
 ある時英語しか使わない授業を試みた,数人の先生も参観していた。生徒はいつになく緊張し,集中しているように思えた。つたない授業であったが「英語を聴いて英語で反応しようとする意識を高める」というねらいが少しは達成できたのではないかと自分では思った。しかし,同僚の意見は違った。「全部英語の授業なんてとてもたまらんじゃ」と言ったのである。そのとき,自分の授業を深く見つめ直し反省したことが,今はとてもなつかしい。教育はあせらないのが良い。ただ,どこに向かっているのかははっきりさせておきたいと思った。
 中学校では部活動で多くの時間を過ごしてきた。授業でかかわることのできない多くの生徒達ともたくさん知り合うことができた。ただ,担当する部活動を自分で選ぶことはできなかった。四十を超え5つ目の部活動顧問になるときやっと希望がかなった。国立の学校に移動したとき,希望したサッカー部の顧問になれたのである。辛いことをするから給料がいただける。つまり,仕事の苦労は必要不可欠なものである。ただ,放課後や休日の活動が多い部活動に関してはできることなら自分の好きなスポーツとかかわりたいと思っていた。私が今まで顧問としてかかわってきたスポーツが嫌だったのではない。サッカーにしても一度顧問を経験して初めてその楽しさに気づいたのである。したいことを自ら選ぶことができた喜びはその後の活動の意欲につながることは容易に想像できる。私はそれを自らの経験を通して久しぶりに実感することができたのである。
 部活動顧問としての仕事は教師の仕事のほんの一部分にすぎない。ただ,顧問として部活動が正常に運営されるようにかかわることは教師としての責務である。私は,教師として人として失ってはならない笑顔と向上心を,子供達にも身につけさせたいと考えている。私はスポーツが好きな生徒達に,スポーツを通して身につけられる大切なものを見つけさせたかった。そして,自分の笑顔が生徒に喜びと安心感を与え,自分の向上心が生徒の向上心にもつながるよう期待していた。移動した翌年,サッカー部の顧問として少ししかかかわることができなかった3年生が卒業するとき,T君が,私にはこの上なくうれしい言葉を文集に残してくれた。私がその言葉に気づいたのは彼らが卒業後しばらくしてのことであった。『もしできることならもう1度中学1年生になって,昔農先生と一緒にサッカーをしてみたいと思った。』この言葉が私にどれぐらい多くのエネルギーを与えてくれたか私のみぞ知るものである。次年度の県大会予選を目前に,T君の後を受け継いだ新キャプテンであるK君が転校した。副キャプテンだったY君がキャプテンとなった。善戦むなしく県大会出場はならなかった。K君が記念に残したボールに刻まれた文字は現実のものとはならなかった。W君が新しくチームのリーダーとなった。3年目の夏やっと目標が現実となった。必然的偶然とでもいおうか,1年生で担任したクラスに7名のサッカー部員がいた。W君もその中にいた。その1年生達が私とともにたてた目標はT,K,Yキャプテンのものとよく似ていた。少し違うのは先輩を超えることという一節であった。私は見てきた。彼らの笑顔と,その笑顔を支える親の愛。期待,信頼,地味な実践。忘れてならないのは向かうべき方向性である。私達は迷ったら考えた,今何をしているのかではなく,今どこへ向かおうとしているかを。手段と目的を勘違いしてはいけない,いつもそう考えてきた。彼らと語りあった,人生に勝ち負けはない,だからこそ試合は勝ちを目指してがんばる。勝って学ぶものより負けて学ぶものの方が多いはずだ。ただそれは,勝つことを目指して努力した敗者のみが学習できることなのである。
 私は,KFJHSではじめて1年,2年,3年と同じ生徒達を持ち上がり,英語の授業を3年間担当することができた。3年間を見通した指導計画をたてることが自分にまかされたのである。以前は年に数回の英語だけの授業を,1年生の4月からほぼ全授業で取り入れてみようと考え実践した。それまでの,失敗経験を十分いかし,生徒との信頼関係を失わないよう細心の注意を図りながらも,大胆に英語だけの授業に取り組んだ。自らが英語を使う楽しさと難しさを笑顔で体感し続けることが,生徒の英語学習に良い影響を与えることを信じていた。また,私は生徒の先々の姿をイメージし,生徒の伸びを期待し続けた。
 「インフォームドコンセント」,私はインフォームドコンセプトだと思いこんでいて恥ずかしい思いをしたことがある。「インフォームドコンセント」とは医師が患者に十分に説明し,その処置には患者の同意が必要だとする考え方である。患者が病院に行くということは,健康を失いたくない,病気を治したい,健康になりたい,という思いからであろう。生徒が学校に来るということは,この世界でみんなとともに,自分がよりよく生きるための力を身につけたいという思いからであると考える。私は,そのような力を身につけようと無意識に思っている生徒達の心に火を灯し,いつまでも消えることのないようにさせたいのである。何のために,何を,どのようにすればよいのか。生徒が理解し納得できるような言葉を探し続けたい。今のままだとどうなるのかと考え悩むのではなく,自分の決めた姿に自分を導く手だてを考えられるような生徒の育成に努めたい。今,私の教室で,生徒達は私に何を期待しているのであろうか。私はその期待に応えるべく,生徒を信頼し,多くを期待し,笑顔と向上心を忘れない教師でありたい。
 平成13年4月8日早朝,私は母からの電話で目を覚ました。母の声にただならぬものを感じた私は,父が帰らぬ人となったことを知らされた。私は号泣した。涙があのように素速く,多量に流れるものだということをその日まで知らなかった。幼い頃からいつかその日は来ると覚悟はしていたが,あのように突然に前ぶれもなく訪れるとは思わなかった。 人は様々な出会いと別れを繰り返し強くたくましくなる。姉,父との別れの後,私は自分が以前よりはるかに強くなったと感じている。
 生徒達も,出会いと別れを経験し成長していくのだと思う。教師との出会いと別れが生徒達の未来を支える一助となることを願い,日々のさりげないふれ合いを大切にしている。
    
  羽咋市立羽咋中学校 2002 平成14年4月(4年)
  志賀町立高浜中学校 2006 平成18年4月(1年)
  志賀町立志賀中学校 2007 平成19年4月(3年)
宝達志水町立押水中学校 2010 平成22年4月